絵筆を握る手 21 [novel]
リハビリと言うものはとても難しいものだった。
頑張っているのに、それがなかなか認められていない、と言うのだろうか。
私が頑張っていると言うのに、それを嘲笑うかのように一向に動く気配をみせない。
彼のほうも、研究に明け暮れて入るらしいのだが、勿論私のところに足を運ぶことは欠かさなかった。
その研究も研究で、まだまだ上手くはいっていないらしい。
それはそうと、私としては私のところに足を運ぶ目的がよくわからなかった。
罪悪感からくるにしても、一応彼も男だ。
彼女がいるのであれば、このような行動は彼女を怒らせかねない。
それで、私は聞いてみることにしたのだが、現在は一人身らしい。
昔はいたのかもしれないが、その辺りはふれないほうがいいだろう。
それに、私としては今現在、共に頑張りあえる人がいると言うのはとても素晴らしいことだった。
困難にぶつかっているからこそ、一人で戦うことが辛かったのだろう。
形は違えど、確かに私たちはそれぞれの目標に向かって頑張っていったのだから。
時に挫けそうになった時なんかはお互い励ましてきていた。
それは何ヶ月も続いていた。
病院は退院しているが、リハビリに定期的に通っていた。
それ故、彼と合う回数はめっきり減っているがそれでも二ヶ月に最低一回は会っていた。
絵筆を握る手 20 [novel]
八年も続けていたものをやめるというのは相当の覚悟を要した。
何で書きたかったのか、その時の想いを捨てることが私には出来なかった。
あの日、私が魅了された絵は今でも私の胸の中に飾られていた。
その絵を外すこと…それは苦痛以外の何ものでもなかった。
でも、だからと言って動かない右手を見て何度もため息ばかりついているわけには行かなかった。
もう決して戻ってはこないあの時を嘆いても仕方が無い。
「あの…俺に言う資格があるのかわかりませんが…諦めないでくださいよ。自分で言ったじゃないですか、俺に。」
彼が言った。この日も例外なく、彼は私の病室に来ていたのだ。
「確かに僕の件とは次元が違うのかもしれない。でも、それはやってみなければわからないことじゃないですか。」
彼の言葉はまだまだ続いた。
「未来を、決まりきったものとして捉えたらダメだって言ったのは波多野さんでしょ?未来はわからないものだからって怯えちゃだめだって言ったのは波多野さんでしょ?どうして波多野さんがわかりきったように諦めているんですか。」
さすがに何十回と自分の腕を見、ため息をついていた私に見かねたのだろう、彼は語調こそ荒くなってはいたが努めて冷静に言う姿に彼なりの感情の昂ぶりが表れていた。
あなたにはわからないのよ、とはさすがに言えない。
物事は違えど、欠けていたものは同じだったのかもしれない。
程度なんてそれこそ、基準の無いものなんだから測りようが無い。
それなら、私も頑張ってみるしかない。
何年かかるかわからないけれど、やってみるしかない。
人に言っておきながら、自分ができないわけが無いのだから。
自分が実践しないものを人にやらせるほど無責任じゃないのだから。
そう決意し、私はリハビリを頑張ることにした。
そのことを彼に伝え、彼はそんな私の姿を見ると、『俺も頑張るから、頑張ろう』と言われた。
一人で頑張るのではないと思うと、何故か力が湧いてきた。
何故なのか、その問いに私は答えを出すことは出来なかったが。
絵筆を握る手 19 [novel]
その翌日から彼は足しげく私の病室にやってきた。
その姿が、せめてもの罪滅ぼしにも見えて、なんともいえない気持ちになった。
彼が頻繁に来るおかげで、私たちは嫌でもいろいろな話をした。
さすがに沈黙だけで数分、時には一時間ほどを過ごすのは、空気が痛すぎた。
私たちはお互いの自己紹介を、まずした。
いまさら過ぎて、私には何を言えばいいのかさっぱりわからなかった。
彼は『田植』と名乗った。まだ二十歳になりたてだと言う。
しがない技術者らしい。
その時私は確か、自分で未来を諦めちゃったらいい未来は来ませんよ、と答えた気がする。
私は自分の名前と、芸術系の大学を受験しようとした、年齢的には受験生であることを言った。
年齢的には、と言うのは今回私が受験することはとても悲観的だからだ。
そして将来的において、受験するかどうかも怪しい。
受験して勉強するかもしれないし、しないかもしれない。
だからと言って、今の私に勉強した後の『その後』が待っているだろうか?
答えはノーに思えた。リハビリは始めたばかり。
しかし右半身は一ミリたりとも動く気配を見せない。
右手が動かなければ絵筆は握れない。
それは右利きの私に、当然抱くことになった覚悟だった。
絵を描くことと訣別する。
そのことを何度も考えるようになった。
絵筆を握る手 18 [novel]
「どこが大丈夫だって言うのよ!ねえ!説明しなさいよ!」
私は再び叫んだ。彼のほうは言う言葉もなく、ただ唖然とするのみ。
「あなたのせいで私は右半身が動かなくなったのよ?こんなのでどうやって生活できるっていうの!」
彼が息を呑むのが聞こえた。
「生活はどうする?仕事はどうする?まさか、女性だから仕事しなくていい、なんて思っちゃいないでしょうね?こんな女、どこの男がほしいって言うのよ!」
私の声はだんだん悲痛な叫びへと化していった。
いつの間にか目に涙がたまっている。
「すみません…。」
蚊の鳴くようなか細い声で彼が言った。
首が深くたれていて、本当に悔いているように見えた。
絵筆を握る手 17 [novel]
そして足を動かしてみた。
かなり酷い怪我をしただろうからあまり動かすことは芳しくないが、動かせないわけではない。
実際左足は揺らすことは出来た。
しかし右は…やはり、一ミリたりとも動かすことは出来なかった。
これは、リハビリすれば直るのだろうか。
不意に怖くなった。
その時、一人の男性が入ってきた。
見知らぬ男性で、どうやら彼が私を撥ねたらしい。
「すみません、ほんとすみません。でも、大丈夫そうでよかった…。」
彼が口を開いた。
「どこも大丈夫じゃないわよっ!」
大丈夫そう、と言う言葉に私は怒りを覚えた。
大丈夫なんかじゃない。
こんな身体になってしまったら私はこの後、どうやって生活すればいい?
どうやって生活費を稼げばいい?
一体彼はそのことを考えているのだろうか。
私の怒りはふつふつとたまって言った。
彼のほうは何でかわからないような顔をしつつも、私に怒鳴られたことで萎縮したような風にもなっていた。
絵筆を握る手 16 [novel]
起きてみて、自分の足があることを確認して私は安心した。
とりあえず足が無いと言うことは無いようだ。
しかし何かが変だ。身体を起こす時に何か違和を覚えた。
何だろう、そう思って両手を確認しようとした。
そういえば、身体を起こすと言いつつ、腹筋だけで起き上がった気がする。
姿勢は中途半端に起き上がっているのだから…。
左手は動く。顔の前まで持ってこれた。
しかし…右が動かない。左で持ってみようと手を伸ばしてみるが、まるでその腕が他人の物であるかのような感触しか感じられなかった。
恐ろしくなって顔面蒼白になった。
右半身麻痺。
その言葉が脳裏をよぎった。
絵筆を握る手 15 [novel]
私が気づいた時、辺りは一面白に囲まれた場所にいた。
独特な薬品のにおいがし、簡素で何も無い空間。
身体は横になっていて、ベッドに寝かされていることに気づいた。
目を開けるその時まで、近くで様々な声が聞こえていた。
さて、私は今どこで何をしているのだろう。ふと疑問がよぎった。
記憶をたどってみる。そうだ、車に撥ねられたんだっけ…。
私の意識が戻ったことに気づいた母親が私の名を呼んだ。
大丈夫かひっきりなしに聞いてくる。
私にしてみればその声がうるさく頭に響き、黙っていてほしかった。
が、声が出ない。しばらく口を動かしていなかったようだ。
その間、母親は何が起きたのか説明してくれた。
どうやら私は二日ほど寝ていたようだ。
交通事故にあって二日寝ていると言うのは長いほうなのか短いほうなのかわからない。
しかし、昏睡状態にあったということは少なからず身体に悪い影響があったのだろう。
今のところ記憶も正常だし、脳に障害が有るようには思えない。
ただし、体のほうは見ていないからわからない。
もしかしたら足の一本二本はなくなっているかもしれない、ふとそんな可能性が脳裏をよぎった。
後で確認しよう、そう思ってから私は再び眠ることにした。
絵筆を握る手 14 [novel]
人々が受験に忙しくなる頃、私は芸術系の大学へ行くためその技術を伸ばすことに必死になっていた。
絵には感情を込めないといいものが書けない。
受験に囚われ、忙しさの中にいるままではまた再び自分の感情を失ってしまうだろう。
そう思って私はバイトをやめなかった。
ただし、頻度は極端に落ちる。
毎週週末だけ、出ることにした。
そしてそれ以外のところでは勉強を、絵の修行を、頑張った。
塾にも通い、暇なんて一秒も無いぐらい忙しい日々を送っていった。
そしてそうやって受験当日まで過ごすと思っていた時。
車のブレーキの音が耳に入ってきた。
それが急ブレーキだと気づいた時、身体の横に何かがぶつかる感触がした。
私の視界は宙を舞い、下につくかつかないかの時には意識が途切れていた。
宙を舞っている間、時がゆっくりと流れていくような感じがした。
車が次々とぶつかっていく音が聞こえた。
人々がキャーキャー喚く音が聞こえた。
しかし目には何も映らなかった。
何が、あったんだろう…
そう思った時には私の視界は闇に包まれ、それとともに意識が途切れた。
絵筆を握る手 13 [novel]
誰もが私は美術系の道へ進むと思っていた。
私自身そう思っていたのだから、それが当たり前なのだろう。
バイトのとき先輩に聞かれたことがある。
その時私は絵を書く仕事がしたいと答えた事を記憶している。
しかし、運命と言うものは残酷なものなのだろう。
欠けたものを補ったらその代償にまた新たに大切なものを失うのがこの世の摂理なのだろうか。
それは、クラスに打ち解けられ、バイト先の人々の支えで感情を得られ、やっと日々が楽しくなってきた矢先の出来事だった。